大学の歴史的文化財

大学の歴史的文化財

大学の歴史的文化財

大学の歴史的文化財

明治館

(国登録有形文化財)

明治館

(国登録有形文化財)

明治館

(国登録有形文化財)

明治館

(国登録有形文化財)

名誉ある「英国王立建築家協会正会員」で、神戸異人館の旧ハッサム邸を建てたことでも有名なアレクサンダー・N・ハンセル氏が設計。
建築様式は当時英国で大流行していた「クイーンアン・スタイル」です。

昭和館

(国登録有形文化財)

昭和館

(国登録有形文化財)

昭和館

(国登録有形文化財)

昭和館

(国登録有形文化財)

1929年に建築。
意匠設計は、当時聖路加国際病院や京都聖三一教会などを手がけたアメリカ人建築家のJ・V・Wバーガミニー氏が、構造設計は「日本における耐震構造の父」と評され東京タワーや通天閣などを手がけた内藤多仲氏が担当。 堅牢な建物ながら、「尖頭アーチ」や「メダリオン―徽章やシンボルマークなどのレリーフ」を効果的に用いて華やかさを見せています。

聖アグネス教会

(京都市指定有形文化財)

聖アグネス教会

(京都市指定有形文化財)

聖アグネス教会

(京都市指定有形文化財)

聖アグネス教会

(京都市指定有形文化財)

円山公園の「長楽館」を設計したことで有名なアメリカ人のJ・M・ガーディナー氏の設計によって、1898年に竣工。
外観はレンガ造り・ゴシック様式の「三廊式バジリカ型」と呼ばれる西洋の典型的な教会様式です。
内部のデザインも、随所に明治期のキリスト教会堂の特色を伝えています。

菅原家の古井戸

菅原家の古井戸

菅原家の古井戸

菅原家の古井戸

「烏丸通下立売下ル天満宮」は菅原道真誕生の地で、塀を隔てた学院の構内に現存する古井戸は、「道真公産湯の井戸」と伝えられています。
菅原公は文学の神として貴ばれたことから、京都移転後の学院の名称を「道真学校」とする意見もあったといわれます。

旧二条城の碑

旧二条城の碑

旧二条城の碑

旧二条城の碑

織田信長は天下統一のため1568(永禄11)年、足利義昭を奉じて入京。
翌年義昭のために築城したのが旧二条城と呼ばれるもので、京都御苑の一隅から平安女学院にかけての一帯にありました。
石碑は、本学室町館の北東角にあります。

斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址

斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址

斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址

斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址

室町時代、足利尊氏はその一族である斯波義将にこの地を与え「武衛陣の屋敷」と呼びました。これを斯波氏が相続したものの、応仁の乱で消失。その後、足利将軍の幕府は、斯波氏の武衛陣を修理してここに幕府を移しました。
足利義晴の子義輝は1550(天文19)年にこの邸に住み、のちに拡張しました。

日本最古級のオルガン

日本最古級のオルガン

日本最古級のオルガン

日本最古級のオルガン

2014年秋に解体修理された、学院所蔵の「リードオルガン」が日本最古級のものであることが確認されました。
この、アメリカのメイソンハムリン社製のオルガンは、これまで1886年の製造と考えられていましたが、修理に当たった「ふたば楽器店」(宇治市)の加藤氏によって、オルガン内部に刻印されている製造番号から、1866年の製造であることが分かりました。
パリ万国博覧会(1876年)をはじめ数々の品評会で多くのメダルを獲得している名品です。

日本初期のセーラー服

日本初期のセーラー服

日本初期のセーラー服

日本初期のセーラー服

1903(明治36)年、本学院は全国に先駆けて生徒の服装を統一。最初は一定の袴(はかま)を着用し、紐に校章入りのバックルをつけて「制服」としました。
1920(大正9)年には、日本で初めて制服を洋装化し、セーラー服を採用。以後、日本ではセーラー服が女子生徒の制服の「定番」となりますが、本学院のセーラー服は、服飾専門家によれば、素材・縫製・デザインいずれにおいても、広く知られる「セーラー服」とは違う、独創的で文化的価値の高いものとされています。

建学の精神

知性を広げ、望みを高くし、

感受性を豊かにし、そして神を知らせる

この言葉は、大阪の川口居留地で米国聖公会宣教師として活躍していたクインビー司祭が、

1875(明治8)年3月20日付で本国へ書き送った手紙の中に見いだされ、

米国聖公会ミッションの中心人物であったウイリアムズ主教による女学校設立の方針に沿って、

その準備にとりかかっていた時に述べられたものです。

この建学の精神は、現在に至るまで本学院の教育の根底に一貫して流れています。

建学の精神

知性を広げ、望みを高くし、

感受性を豊かにし、そして神を知らせる

この言葉は、大阪の川口居留地で米国聖公会宣教師として活躍していたクインビー司祭が、

1875(明治8)年3月20日付で本国へ書き送った手紙の中に見いだされ、

米国聖公会ミッションの中心人物であったウイリアムズ主教による女学校設立の方針に沿って、

その準備にとりかかっていた時に述べられたものです。

この建学の精神は、現在に至るまで本学院の教育の根底に一貫して流れています。

建学の精神

知性を広げ、望みを高くし、

感受性を豊かにし、そして神を知らせる

この言葉は、大阪の川口居留地で米国聖公会宣教師として活躍していたクインビー司祭が、

1875(明治8)年3月20日付で本国へ書き送った手紙の中に見いだされ、

米国聖公会ミッションの中心人物であったウイリアムズ主教による女学校設立の方針に沿って、

その準備にとりかかっていた時に述べられたものです。

この建学の精神は、現在に至るまで本学院の教育の根底に一貫して流れています。